賃貸アパートは一般的に、交通利便性×専有面積×新しさのように、住まい手を対象から切り離した軽量可能な客観的数値によって評価されるが、それらは住まいにとって最も大切な「居心地の良さ」を図るものではない。本来住まいの価値は住まい手を入れ込んだコスモロジーとして評価されるべきである。
神楽坂薫木荘は情緒=Moodを最上位のスペックとして計画された。住まいは、忙しい現代社会に生きる我々が人間存在を回復する場所であるべきである。個人住宅であれば、建築家「私」と住まい手「私」がまるで合わせ鏡のようになって「居心地の良さ」を探ってゆく。賃貸アパートはその相手が居ないが、かといって一般的な間取りや量産品の集合に「居心地の良さ」を見出すことは出来ない。神楽坂薫木荘は、建築家である「私」が建具や家具、手摺に至るまでかたちを与え、庭園美術家である長崎氏が、樹木や石を選び、その場所を決め、オブジェを製作した。建築家「私」と庭園美術家「私」のそれぞれが個を掘り下げた先に、普遍的な「居心地の良さ」があると考えている。
庭園の陽だまりを背景に薄暗い一階寝室の先には、漏れ出る光の中、階段と鍵型の手摺の先端が僅かに顔を覗かせ、上部に確かに広がる空間を期待させる。南北の街並に大きく開放された三階DKでは、数本の独立柱の効果によって、時間の移り変わりと共に漆黒の床に光と影が乱舞する。二層に渡るチューブ状の階段室は、その昇降機能以上に、この二つの性格の異なる空間の場面転換を図る舞台装置のようなものである。
住まいの原型としての洞窟・・・この部屋の設計中はいつもそんな事ばかり考えていた。チューブ状の空間の、ちょっと膨らんだところが体を洗う場所や寝る場所、大きく膨らんだところが食べる場所である。光をたぐり寄せながら進んで行き、最も見晴らしの良いところに辿り着いたら、庭園を一望する事が出来るのだ。建築の各部分に求められる機能をデザインの言い訳にしたくないと、いつも考えている。玄関を開けるとモノトーンの空間を背景にして、米松無垢の構造物が鎮座する。力学的な力強さ、木の生命力、何でも良い。機能以外に身体で感じた感慨が、機能以上に暮らしを豊かにしてくれるのだ。二階のワンルームにはカーテンで仕切ることが出来る大きな場所と小さな場所がある。どう使うかは住まい手の身体が決めてくれる。