「ミツバチのささやき」のような家
寺や神社に囲まれた蛇行する細い坂道や石の階段を下ってゆく。最後の曲がり角を曲がった途端、目の前がぱっと開けて急に景色が変わった。野川のほとりに出たのだ。周りを緑豊かな遊歩道に囲まれた原っぱがぽっかりとそこにある、まるで建物が建つのを拒むかのように。最初に敷地を訪れたときの印象である。
映画「ミツバチのささやき」のような家をひっそりと建ててほしい、小説家である施主の最初の一言であり、唯一の要望でもあった。この映画は幼年期に誰もが経験する動植物への興味と恐怖、風が頬をかすめる感覚等、あの全身でモノを感じるような研ぎ澄まされた感覚世界を、主人公の少女アナの目を通して丁寧に描かれている。
周辺環境、敷地、建物の境界を曖昧にする
先に存在していた野川やサクラ並木の邪魔をしないように、最初からそこに存在していたように、環境に溶け込みたいと思った。しかし家をひっそりと建てるには50坪足らずのこの敷地はあまりにも小さい。そこで周辺環境、敷地、建物の3つの領域に存在するふたつの境界を曖昧にすればよいと考えた。隣家がないのだから、建物にふさわしい仮想の敷地を周辺環境も含めて設定することにした。
敷地に対して建物を傾けて配置すると、建物のヴォリュームは遊歩道にもっとも近い所で「線」になり、面は遠ざかる。また切妻屋根を交差させた十字形平面にすることで、全方位に先端の低い十字形勾配屋根の斜面が接し、長大な垂直壁面を避けることができる。その結果、遊歩道を散歩する人びとに対する圧迫感を軽減し、建物の背後に隠れてしまう周辺の緑も少なくなるように意図した。同時に敷地境界と建物の間に大小さまざまな余白ができ、建物の凹凸と複雑に絡み合う。
建物で庭を刻む、庭で間取りを刻む
十字形平面の妻側を壁、桁側を開口にして、桁側が交差する入り隅の開口上部をバルコニーにした。各居室はプライバシーを確保すると共に、性格の異なるふたつの庭に接することになる。庭に植える植栽は、妻壁の正面は建物がこの環境に溶け込むように周辺の緑との関係、桁側が交差する入り隅は部屋との関係で決めて、すべて性格の異なる庭にしたいと考えた。十字形平面の中心には階段室と1階にキッチン、2階に書庫のあるホールを据え、その周りにおのおの性格の異なる部屋を配置する。部屋の配置は、どの庭や周辺環境と接するのかによってほぼオートマチックに決まった。
方程式を解いて情感をつくる
1階の各部屋をつなぐ出入り口は引き戸を基本とし、階段室とキッチンを中心に回遊することが出来る。その道のりにおいて視界は庭に咲いた季節の花を、壁面に映し出された木漏れ日を、さっきより薄暗くなったその先の部屋を捉える。一方、2階の各部屋の出入り口はドアで、必ず薄暗いホールを通過しないと別の部屋に行けなくなっており強い中心性を感じさせる。
各場面において、住まい手が抱く情感に濁りが生じないようにディテールを洗練させてゆく。このディテールが論理を支え、論理を積み上げて静寂をつくる。静寂は感覚を研ぎ澄まし、情感をつくる。一連の作業はまるで連立方程式を解いているような美しい作業だった。
建主は野川の向こう岸を散歩している時、サクラ並木の間から石葺きの屋根しか見えないわが家が好きなのだそうだ。施主の求めた家は、自然の中から自然を映し出すような家、それは少女アナの目そのものに他ならない。